誰しもがこの世界とお別れする時が来る。
本当は、当たり前のことなのだけど、
普段はあまり身近に感じることはないかもしれません。
あなただったら、どんな姿で残されたあの人と一緒に居たいと思いますか?
本人にとっても、家族にとっても、納得できる
最高の遺影写真を撮りたい!
家族の一日を追いかけたルポルタージュです。

カメラマン
PhotoLeGe
小栗啓吾

病院の介護士として勤務しながら『介護写真家』として撮影を行なっている。 イキイキとした介護士の表情を写真に切り取ることで、介護現場での心の触れ合いを多くの人に知ってもらうことを目的に様々な活動をしている。また、出張で遺影撮影をしながら介護・終活相談も行なっている。

スタイリスト
JIBUN STYLE LABO代表
古屋ヨウコ

人を笑顔に輝かせることをミッションに、他人との比較ではなく、自分らしさを大切にした『JIBUN STYLE』にこだわり『最高に輝くJIBUN/自分』を装いで表現するスタイリングアドバイスをはじめ、個人や企業、店舗の価値を高めるプロデュース、ブランディングサポート事業等、活動のフィールドを広げている。

ヘアメイク
綺羅化粧品浜松
野田健

パウダーメイクの機能性に感動して、板前から綺羅化粧品へ転職。現在はメイクアップ&小顔エステ小顔エステトレーナーを担当。「人を綺麗に見せる」を信念に日々技術に磨きをかけている。

5月18日

第1回 「KANJIの80’s」…生涯現役で、人と人の心を繋ぐ。

浜松市東区にお住まいの梶野完治さん(80歳)、加津子さん(80歳)ご夫妻。ご主人の完治さんは平成11年(1999年)から8年間にわたって静岡県の県議会議員を務められました。現在も原付バイクであちこちを駆け回り、共産党員として元気に活動を続けています。そんなご主人をずっと支え続けてきたのが奥さまの加津子さん。お2人揃って80歳の今年、遺影写真の撮影に挑戦することになりました。撮影当日は、プロのカメラマンさん、メイクさん、スタイリストさんが集結。さてさて、どんな写真ができあがるでしょうか。これまでのお2人の人生を振り返りながら、当日の撮影の様子をお伝えします。まずは完治さんの80’S(エイティーズ)を振り返ってみましょう。

淡路島_家族写真

梶野完治さんは、昭和14年(1939年)に兵庫県淡路市の淡路島で生まれました。お父様が中学校の校長や地元の教育長を務められていたとあって、教育熱心な家庭に育ちました。中学、高校時代は野球部で活躍。高校を卒業後は1年間浪人をして、東京の明治大学に進学しました。当時の大学生は、詰め襟の学生服に角帽をかぶって通学していたとのこと。今の学生とは違って、ずいぶん硬派なイメージがありますね。

 

 

大学時代は、代々木上原に下宿。あたりは閑静な高級住宅街で、すぐ近くに歌手のペギー葉山さんのご自宅がありました。銭湯で丸山明弘(現在の三輪明弘)さんと会ったこともあるそうです。下宿先には大学生が4人間借りしていました。家賃は1ヶ月7千円。親からの仕送りが1万円だったので、毎月3千円でやりくりをしていたそうです。「とはいっても、その頃はラーメンやカレーライスが15円だったから、何とかやりくりできました。学生時代は六大学野球が好きで、よく神宮球場に応援に行ったなぁ。入場料はたしか50円だったかな」と懐かしそうに青春時代を振り返る完治さん。野球観戦以外にも、東大生と一緒に社交ダンスを習っていたこともあり、歌声喫茶に行くのも好きだったそうです。歌は今でも大好きで、カラオケでは裕次郎や杉良太郎、川中美幸、香西かおりが十八番です。

学生寮にて

明治大学にてご両親と

昭和37年(1962年)に大学を卒業後、いったん東京の企業に就職しましたが、半年後に退職。当時、大阪の染色関係の会社に勤めていたお兄さんが浜松に赴任していたので、お兄さんを頼って浜松にやってきました。そして、浜松市(中区)野口町にあったお兄さんの会社の2階を借り住まいにして、今でいうニートな生活を送り始めたのでした。

 

ちょうどその頃、1階のお兄さんの会社に勤めていたのが加津子さんでした。毎日顔を合わせていた2人は、同学年で話も合ったので自然と親しくなり、ハイキングや登山、読書会などの集まりに一緒に参加する仲に。そしていつしか、結婚相手として意識するようになりました。「他にも良い人はいろいろいたと思うけど、なんとなく結婚することになっちゃったんだよなぁ」と照れ隠しをしながらも、実はキュートな加津子さんに夢中だったことが当時の写真からうかがえます。

 

加津子さんとツーショット

浜松に来てから約半年後の昭和38年(1963年)4月、浜松市役所への就職が決まり、新しい生活がスタートしました。その頃にはすでに加津子さんとの結婚を決めており、2年後の昭和40年(1966年)10月に25歳で結婚。まもなく、現在の場所に一軒家を構えました。新居は、6畳と4畳半の部屋に水回りが付いた平屋建てで、建築費は100万円。昭和42年(1967年)には長男の治久さんが生まれ、庭に柿の木を植えました。その後、子どもが2人に増え、徐々に部屋や2階を増築して、現在に至っています。築50年の住まいは、家族の楽しい想い出がいっぱい詰まった宝箱です。

記念の柿の木

 

子どもの頃から正義感の強かった完治さん。世の中の人々が安心して暮らせるように、「人が主人公の政治」の実現を目指して、昭和41年(1966年)に26歳で共産党に入党します。 以来、現在に至るまで共産党の活動を54年間にわたって続けてきました。

 

平成6年(1994年)には、31年間務めた浜松市役所を55歳で退職し、労働組合の仕事を専門に行うようになりました。労働組合では、浜松市の労働組合委員長や静岡県の委員長を歴任。東京の中央本部にも1年間赴任し、働く人の労働環境の改善を目的に組合員たちを牽引してきました。

 

さらに、平成11年(1999年)には静岡県議会議員選に出馬し、見事当選。ちょうど60歳を迎えた年のことでした。その後、2期8年に渡り、68歳になるまで県議会議員を立派に務め上げました。

 

 

梶野家_家族写真

「若い頃から、自分の考え方を殺して、出世のために上の人の言うとおりにするのが嫌だった。そういう生き方をしていると、頭の中が改造されて自分自身を失ってしまうような気がしたから。社交術ばかり長けた生き方が嫌いで、そうでない生き方を選んできました。それに、いつまでも同じことを繰り返していたのでは前に進まない。新しい関係をつくって、広げていかないと。そして、常に挑戦することに執念を持つ。人生にはそういうことが必要だと思います」と、ご自身のこれまでを振り返りながら、人生観を語ってくれました。

 

「人が主人公の政治の実現」を目指して、現在も地域の党員の取りまとめ役として生涯現役で活躍されている完治さん。「一生懸命生きている人が大好きで、一度出会った人のことは、名前はもちろん住んでいる町まで忘れない」…そんなエピソードからも、1人1人と真摯に向き合い、人とのつながりを大切にする誠実なお人柄がうかがえますね。
(次回へ続く)