いつか、我が家にもやってくる「介護」という時間。
体験してみないとなかなか実感を持てないけれど、
どんな様子なのか知りたくないですか?
介護のカタチは十人十色。
家族の状況やその時の選択によっても
いろいろな道があることを知り、
自分と似たケースから学ベる
介護の事例集をお届けします。

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2019.10.19

第8話 母と娘のシングル介護17年間・Iさんの場合

【ご家族構成】

5年前に母親を亡くすまで17年間、独身でいわゆるシングル介護した経験を持つ。小学2年生の時に父親を仕事中の事故で亡くし、小学6年生の時に異母姉が結婚で家を出て以来38年間、母親と二人暮らしだった。介護期間後に資格取得した行政書士の仕事の傍ら、シングル介護アドバイザーとして活動中。現在は猫3匹とのひとり暮らし。長野県在住。

 

メインイラスト診察室でのシーン

 

介護された期間を教えてください。

 

 平成9年から平成26年まで、私自身は33歳の時から50歳まで、脳梗塞で左半身麻痺になった母を17年間在宅で介護し、看取りました。独身の子どもが親を介護する「シングル介護」でした。

 平成9年当時、まだ国の介護保険制度はスタートしておらず、介護休業制度もありませんでした。職場にも介護経験者は1人もいなくて、大変さをなかなか理解してもらえない。「シングル介護」という言葉ももちろんない。結局、仕事と介護の両立ができず離職しました。以後17年間、無職のまま介護しました。

 

それは、どんなきっかけで始まりましたか?

 

「介護はある日突然に」とよく言われますが、私の場合もまさにその通りでした。母がある日突然、脳梗塞で倒れました。

 平成9年5月の夕方、母から携帯電話に連絡が入りました。「体がおかしい。左手がうまく動かない」と言う弱々しい声でした。

 当時私は、ミニコミ紙の記者をしていました。仕事にのめり込んでいたので、自宅は寝る場所でしかなく、母との会話もありませんでした。ですから、私を早く帰らせるための口実に違いないと思ってしまったのです。

 ところが、母の顔を見た瞬間、うそではないと分かりました。笑った顔がゆがみ、左の口角が下がったままでした。慌てて近所の開業医に連れて行きました。診察を受け、会計を待つ間にも状態は悪化し、歩けなくなってしまいました。その後、救急車で病院に向かいそのまま入院。

 診察室でドクターから説明を受けましたが、何も頭に入ってきません。唯一「脳梗塞」と「左半身麻痺」という言葉だけが耳に残りました。母は、どうなってしまうのだろう。そして私は……。呆然と立ちすくみました。

 翌日、主治医になったばかりのドクターに「お母さんの退院後は自宅ですか。それとも施設ですか。それによってリハビリの仕方が変わりますから」と言われました。

 入院から12時間後のことで、私はまだ、母が入院したという現実さえも受け止め切れていませんでした。母は施設に行くほど重症なんだ。母が病気になるなんて、どうしよう、どうしよう、とパニックに陥ってしまったのです。

 

その後、お仕事をお辞めになって。

 

 はい。翌年の1月に会社を辞め、自宅での介護を始めました。そして介護生活をしながら、母を勉強台にして社会福祉を学ぼうと、34歳で大学生に転身しました。

 ところが、社会福祉士の資格を取って再就職に動き出した頃、母は急性胆のう炎の発作を頻繁に起こすようになりました。もともと肝硬変も患っていたので、胆のうを切除する根本的な治療ができず、対症療法しかありませんでした。

 母は発作のたびに入退院を繰り返すようになりました。もし母が一人でいるときに発作を起こし、誰にも気づかれずにそのまま息絶えてしまったらと思うと、再就職は考えられなくなりました。母が受け取る年金と私の貯金で何とか暮らせていたことも大きかったです。

 

 けれど、介護期間が長引くにつれ、私は精神的に追い詰められていきました。

 当時、テレビでは頻繁に中高年の再就職の厳しさについて取り上げていました。資格や専門的技術がないことが理由として挙げられていました。私はまだ社会で通用するのだろうかと、言いようのない不安に襲われました。

 このとき、私は再就職を断念しました。そして今までの介護経験を生かしつつ、独立開業も視野に入れ、さらなる資格取得を目指そうと決めました。民間の通信教育を受講するだけの金銭的ゆとりはないから独学でした。

 私が取り組んだのは、行政書士の資格取得でした。行政書士は法律系の資格の中では学びやすかったのです。社会福祉士とのダブルライセンスで、介護から相続まで一貫した仕事ができるとも考えました。

 しかし、介護や家事、戸外の雑事をしながらの勉強は困難を極め、遅々として進みませんでした。そしてついに行政書士資格を取得できないまま、平成26年、母と死別し、介護は突然終わりました。

 

 直後に受けた2回目の試験も不合格。わずかな貯金を取り崩す節約生活をしながら、一心不乱に勉強を続けました。周りからは、勉強するより早く就職したほうがいいと勧められ、具体的な仕事まで紹介してくれる人もいました。心が揺れたときもありましたが、すべて断わりました。

 確かに、雇ってくれる所があるうちに就職したほうが得策かもしれません。けれど、ある年齢に達すれば必ず辞める時が来る。その点、自営業ならば棺に入るまで仕事ができる。今は不利に感じるけれど、長い目で見たとき、今踏ん張って資格取得を目指したほうが将来に希望が持てると考えました。何よりも、今まで積み上げてきた知識を無駄にするのはもったいない。だから必死に勉強しました。

 平成27年、ついに試験に合格し、翌年、個人事務所を構えました。離職したのが33歳。19年のブランクを経て、ようやく社会復帰のスタートラインに立ったのです。

 

介護生活で一番大変だったことは何ですか?

 

 介護自体はそれほど大変ではなかったんです。母は出かけることが好きだったし、おむつを替えたりとか、そういうことは一切なくて。本人が嫌がったこともあって長いこと介護認定は受けませんでした。その後、自分の身の周りの事を全然できなくなったのは、93歳で亡くなる数ヶ月前のこと。その時の入院で初めて、要介護5の介護認定を受けました。そこからは、ヘルパーさんやデイケアへ通いましたが、1カ月半ほどの期間でした。

 

 最もつらかったのは、介護が始まって数年が経った頃。私は自分で納得して仕事を辞めたと思っていましたが、ふとしたことから無理をしていることに気づきました。

 母がリハビリを兼ねて趣味の水墨画を再開した頃でした。母の姿を見て、抑え切れない感情がわき上がって来たのです。「私はやりがいを感じていた仕事をあきらめたのに、どうして母は好きなことをしているのか」。私の人生は母によって変えられてしまった。悶々とした気持ちは納まらず、何かにつけて母に当たるようになりました。

 介護期間が長引くにつれて、ご機嫌伺いに来てくれる人もいなくなります。挙句の果てには「わが家が透明で、よその人には見えないんじゃないか。わが家のある場所が空き地にしか見えないんじゃないか。だから来てくれないんだ」そんな心境にもなりました。

 

 友達に介護のことを話しても、相手にとってはピンと来ない話題です。同世代にとっての関心は子育てだったりして、親の介護なんてまだまだ先の話。同じ経験を共有できる人はいませんでした。

 世の中から見捨てられてしまったんだという感じ。長いトンネルに入ってしまったような感覚。母を置き去りにしてどこかへ行ってしまいたいって何度も思いました。

 そういう心境のときに、周りから「介護がんばってね」と声をかけられました。それが辛かった。相手の人は、私を元気づけようとかけてくれたと思うのですが、その言葉がとても重かった。「今だってこんなに必死にがんばっているのに、もっとがんばらなきゃいけないの。まだがんばらなきゃいけないの。もう勘弁してよ」。心の中で叫んでいました。介護保険制度が始まっても、大正生まれの母はプライドが高くて、介護サービスの利用を頑なに拒みました。たぶん「もう限界」と感じる一歩手前でしたね。

 

では逆に、うれしかったり、楽しかったりしたことがあれば教えてください。

 

 母には80年来、胸に秘めてきた願いがありました。それは出雲大社に行きたい、という夢でした。母は子どもの頃、偶然写真で見た出雲大社の荘厳な姿に目を奪われ、大人になったら絶対に行こう、と決心したそうです。けれどその後、紆余曲折の人生を歩み、父が亡くなってからは女手ひとつで私を育てるため、心の奥に願いを封じ込めてきたそうです

 

 私がそのことを知ったのは、急性胆のう炎で母が入退院を繰り返しているときでした。

 平成22年初夏、私は母と出雲大社に行きました。大鳥居を見上げた母の目は潤んでいました。今までの人生が頭の中を駆け巡っていたのでしょう。来て良かった、と私の胸も熱くなりました。

 

イラスト2_念願の出雲大社へお参りとその後

 

いい思い出になりましたね。

 

 問題はその後でした。旅行から帰った途端、母は無気力になってしまいました。帰って来てからは、歩くと言えばトイレに行くぐらいで、あとは居間の椅子でうつらうつらしているだけ。リハビリもしません。「少しは歩いたら? 動けなくなっちゃうよ」と声をかければ「そんなこと百も承知している。うるさい!」と急に機嫌を悪くする。旅行に出かける前とは人が変わってしまったようでした。

 

そのような状況をどうやって切り抜けたのですか。

 

 ある出来事が起きて、トンネルから抜け出せたのです。わが家に隣組長の役が回ってきました。当然私が引き受けるしかありません。地区のお寺の例大祭に出かけると、60人ほど集まったなかで、女性は私だけでした。帰宅して母の顔を見たとたん、号泣しました。「どうして私ばっかり、ひどい目にあわなきゃいけないんだ」。溜まりに溜まった鬱憤が噴き出しました―――。思いの丈をぶちまけて、一息ついたときでした。母がぽつりとつぶやきました。「かあちゃんはそういう思いを30年背負ってきたんだ」と。

 

 父が事故死してから、母も弱い心を隠して懸命に生きてきたんだ。そう知ったとき、私の鬱憤は一瞬にして消え去り、代わりに母に対する愛おしさがあふれ出しました。母を「支えてやっている」のだと高圧的になっていたと悟りました。それまで好きな仕事に没頭できたのは母がいてくれたから。ようやくそのことに気づきました。今度こそ恩返しをしよう、と心に決めました。

 

 

イラスト3_気持ちの変化

 

介護に対する向き合い方が変わったのですね。

 

 あるとき母がつまずいて転んだことがありました。段差があり、一人では通らないように言っていた場所だったので、なぜ通ったのか問い詰めました。すると母は「いつもお前に怒られてばかりいるから、たまには褒めてもらおうとがんばったんだ」と答えました。私は普段きつい言葉を投げかけている自分に気づき、それでも頑張る母の思いに胸が熱くなりました。

 

 「さあ朝だ。早く起きましょ、イチ、ニッ、サン」

 

 こんな言葉がけから母との一日が始まるようになりました。晩年の母は、動きが悪くなった自分の体に号令をかけ、歩くときなどに「イチ、ニッ、サン。イチ、ニッ、サン」と声に出すようになっていました。

 

 最初、私には耳障りでしかなかったので、やめてほしいと頼みました。けれど黙って歩こうとすると、体の動きがチグハグになってしまう。我慢するしかないと覚悟しましたが、私の眉間にはくっきりと2本の縦じわが刻み込まれてしまいました。これはまずいと考えていたとき、ひらめいたのです。母と一緒に声に出してしまおう、と。

 気持ちに余裕がないときなど、ついきつい言葉を投げかけていました。そこで予防策として、言葉の終わりに母の口ぐせをつけるようにしたのです。「ちょっと、早くしてよ」と言っていたのを「ちょっとだけ早くお願い、イチ、ニッ、サン」と柔らかい言い回しに変えるだけで、心にゆとりが持てるようになりました。

 

 今は、介護をして良かったと思えます。母が最初に倒れた時にそのまま逝かれてしまっていたら、母のことをよく知らないままになっていたと思います。

 

 

介護に関して、これから介護をする人たちに伝えたいことはありますか?

 

 介護をする上で仕事との両立は欠かせません。

 特にシングル介護者の場合、離職せざるを得ない状況に陥り仕事を手放すと、介護期間中は親の年金で糊口をしのげるかもしれませんが、親と死別した時点で親の年金は全て無くなり、その後の生活が成り立たなくなってしまいます。

 定期的に入ってくるお金がなくなるということは、すごい恐怖感です。でもブランクが長いと、社会に出るのに臆病になる。親が死んだことを隠して年金を受け取っていたというニュースがたまにありますね。いけないと思いますけれど、その気持ちというのは本当によくわかります。

 

 実際、私はまだ十分な収入を稼ぐことができずに喘いでいます。ですから、皆さんは私を反面教師にしてほしいと思います。40〜60代は、年齢的にも再就職は厳しいです。

 離職して17年間介護に専念した私の経験から言えることは、とにかく仕事と介護を両立させることです。育児介護休業法が改正され、以前よりは使い勝手がよくなりました(93日間の介護休業を3回に分けて取得できる、年5日の介護休暇を半日単位で取得できる、など)。ですから介護保険、介護休業制度、その他のサービス、近所の助けなど、ありとあらゆるものを使って、仕事だけは手放さないでほしいです。