いつか、我が家にもやってくる「介護」という時間。
体験してみないとなかなか実感を持てないけれど、
どんな様子なのか知りたくないですか?
介護のカタチは十人十色。
家族の状況やその時の選択によっても
いろいろな道があることを知り、
自分と似たケースから学ベる
介護の事例集をお届けします。

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2019.6.27

第7話 Sさんの場合

【ご家族構成】

三人姉妹の末っ子。静岡県浜松市在住。子ども2人(娘と息子)は既に独立し、現在は夫と二人暮らし。娘は結婚して隣の磐田市に住み2人を子育て中。実家のある愛知県(名古屋近辺)に暮らす父と、膠原病を患う長姉を看るために新幹線で名古屋へ(二人とも既に他界)。生活の場は浜松のため、主たる介護者は一宮市に住む次姉であり、その介護をフォローした。

 

長女と次女と父の病院風景

 

 

まず、介護していた当時の状況を教えてください。

 

 私は三人姉妹の一番下で、姉が2人。私は浜松に住んでいますが、もともと実家は名古屋で、父も姉たちも名古屋。ですから介護といっても中心的な立場ではなくて、主には二番目の姉が動いてくれていました。

 

 一番上の姉は体を壊していて父の介護には携われませんでした。一番上の姉の通院日になるべく合わせて、二番目の姉が父を同じ病院へ連れていき、姉2人が病院内で父に付き添っていたようです。普段は施設で暮らす父も、次女と二人きりで病院へ行くよりは長女に会えた方が嬉しい、という感じでした。母はもう25年近く前に亡くなっています。

 

 母が亡くなって7〜8年は独り暮らしで。身の回りのことを全部一人でやって頑張っていたんですけどね、認知症がちょっと増えてきて。やはり年齢も年齢で。亡くなったのが平成27年、97歳でしたので。

 

ではお父さまが78歳くらいのときにお母さまが亡くなられた。

 

 父は自分のことは自分でできるけれども、まだらの認知症がありました。そのため独り暮らしをさせておいて、万が一、周りの人に迷惑をかけてからでは遅いということで、いったん二番目の姉のところに移ることになりました。けれども、その姉も不定期の仕事をしています。父に一人で留守番させることになりますが、医者から「独りでは置いておかないほうがいい」と言われたようです。

 

 もともと暮らしていた実家は、ずっと住み慣れたところですから、独り暮らしでもご近所との交流がありました。隣の人が「コーヒーできたよ」って呼びに来てくれたり、何か持ってきてくれたり。

 

 名古屋市のフリーパス券(市の公共交通機関が乗り降り自由)を使って、しょっちゅうお寺の集まりに行ったりして。だけど姉の家は隣の一宮市なのでフリーパス券が使えないんですね。そうするとちょっと出不精になって、家にこもって留守番をしている状態。それで、姉がいろいろ見に行ってくれて施設を探したんですよ。いくつか見た後で、ここならっていうところが見つかって、グループホームに入ったんです。姉のところでは2年近く暮らしました。

 

 グループホームには10年くらいお世話になりました。 父一人だけ浮いているくらいに断然元気。施設の人が買い物に行くときに、荷物持ちを兼ねて父をよく連れ出してくれていたくらいです。

 

 その父も90歳頃に直腸がんと診断されました。高齢なので外科手術はリスクが大きすぎると。それで父の通院が始まりました。でも、まだらの(認知症の)おかげです。がんのことは本人も医師から聞いているのに「俺はどこも悪くないのに医者に行くんだよな」って感じでいてくれて。

病気のことで気分が落ち込んでしまったりというのも、つらいですものね。

 ただ一番上の姉が膠原病で、どんどんひどくなっていくので、自分のことよりそっちのほうを特に父は心配していました。そういう点はやっぱり親ですよね。一番上の姉が入院してしまい、父も時々入院するようになって、二番目の姉の補助的に、私も介護に関わるようになりました。年齢的なものもあって、父は肺炎を起こしたり、腸閉塞をおこしたりと時々具合が悪くなるのですが、それがタイミングよくといいますか、年末年始とかゴールデンウィークとか、連休のときなんです。

 

 姉の最期の方は、二番目の姉と日にちを合わせて見舞いました。父も晩年まで自力で歩けていたので姉の病院に連れて行ったり。だけどあんまり連れて行くと父が余計心配するから、もういいねと。姉の入院のことは言わずにおこうと、そんなかんじで。

 

 一番上の姉がそうなってからは、二番目の姉に休んでもらうために私が父の病院に寝泊まりしました。私が浜松に帰る日の夕方になると姉が病院に来て交替。だから介護らしい介護はほとんどしてないですよ。介護というより補助ですね。

 

病院の付き添い

 

お姉さんの助けになろうという気持ちですね。

 

 そうです。私は生活の場が浜松なので、名古屋に来たら父のこと以外にすることはありません。でも姉は毎日、時間に追われながらの介護ですから。

 

 父親は出歩くことが好きだったので、姉が亡くなってから、父との思い出づくりの感覚で3人で旅行に行きました。宿を探すのは私の役割でなるべくバリアフリー。 お風呂も、もういいやって、3人で家族風呂。父の力が弱くなっていて、湯船に浸けておいたらブクブク……、急いで引き上げたりして(笑)。そういった旅行も何回かしました。

 

 外出のときはおでかけパンツに替えないといけません。はきたくないと最初は抵抗していたらしいんですよ。父は戦争を経験した人で、ずっとふんどしだったんです。ふんどしは売ってないので私が作って。新しいのを届けて、古いのは取り替えて。私はふんどし担当でした。

 

 姉は父をよく食事にも連れ出してくれていました。それに姉には娘が一人いて、私からみると姪っ子になりますれど、おじいちゃんのことが大好き。その子が本当によく動いてくれたんですよ。

 

 

思い出づくりの旅行

 

周囲の人が協力し合えたのはよかったですね。

 

 グループホームに入れるのは、基本的には自分で自分のことができる人たち。身の回りのことができなくなったら出ていただきます、というのがグループホームの基本方針でした。ですから病院によく緊急搬送されるようになってからは、いつ出て行くように言われるかと、いつも心配でした。

 

 例外的に看取りまでしてくれると言って下さったこともあったのですが、誤嚥性肺炎を起こしたり、突然意識をなくすこともあって、申し訳ないけれどやはり無理ということになりました。

 

 緊急搬送先の総合病院では、泊まりはできなくて、誰かがそばにいないと拘束されちゃうんです。かわいそうだから姉と交替で病院にいることにしました。2週間くらいの入院期間でしたが、その間に姉が次の施設を見つけてくれて、介護付きの施設に移りました。

 

 グループホームはものすごく家庭的なところだったけれど、その民間施設はとても静かなんです。施設の人が廊下を歩いてるくらいのもので。父はグループホームに帰りたかったんでしょうね。動けないはずなのに、自分でベッドから落ちて、床を仰向けになって移動して、廊下に頭を出していたらしいです。そういうこともありましたね。

 

 費用の面は、父のもので全部賄えました。負担がどんどん増えていくとよく聞きますよね。紙パンツにしても、タクシー代にしても、もちろん医療費も当然かさむし。姉から「変な話、今、すごい金額だよ」って。だけどそれもお父さんのお金でやれてるからって。そういう点でも感謝だねって。

 

 最期の方の父はまだらの認知症がちょっとひどくなってきたね、という感じでしたが、性格が変わってしまうこともありませんでした。グループホームでもすごくかわいがってもらえて、ああいうふうに年をとりたいなと思える父でした。